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60歳のラブレター

第11回「60歳のラブレター」 金賞受賞ラブレター

  • ※第11回受賞者の年齢は、2011年1月31日現在のものです。

「夫婦のラブレター」部門

辰口 千枝子 (たつぐち ちえこ) 様 [埼玉県 59歳]

 私は1回目の手術を受けた12歳の時に将来看護師になろうと決めました。私は多分人並みの家庭を持つ事は無理かもしれない、だからこの仕事に就いて一生誰にも頼らず生きていこうと思っていました。その後計3回の手術を受け「先天性口唇裂」による鼻の変形や顔の傷は多少目立たなくなったものの"何故自分はこんな形で生まれてきたのか"という答えのない問いがずっと心の底にあって時折私を苦しめました。私が准看護師として働きながら看護師を目指し進学中の2年の時、貴方は高卒後検査室で助手をしながら臨床検査技師の夜学に通う1年の時、院内のフォークソングクラブで私達は出会いました。貴方は大柄でギターが上手で私は歌う事が大好きでした。約1年後"僕にはもったいないけど僕でなきゃダメなんだ"20歳の貴方は3つ年上の私にそう言うと手術痕の残る私の唇にそっとキスをしました。あの時の貴方の唇のあたたかさと優しさを私は今でも覚えています。それからままごとのような結婚生活が始まり2人とも資格を得て生活も安定した数年後、子供への遺伝を考え妊娠に後ろ向きだった私に"どんな子が産まれたって2人で育てていけばいいじゃないか"そう言ってくれた貴方。幸い授かった2人の娘は何の障害もなく今では貴方と親子というより友人のようです。私は来年貴方より一足早く定年を迎えます。子育てしながらの不規則な仕事は正直大変な時期もあったけれどこの看護という仕事は本当にやりがいのある素晴らしいものでした。それをここまで続けてこられたのも貴方の支えがあったからです。だから私は今は自分はこんな形で生まれたことでこの仕事や沢山の患者さんや大切な家族にめぐり会えたのだと思えます。
 又、休日の朝は散歩したりバイクで映画に連れていってね。私のオカリナにギターで伴奏してね。大きくて(今はメタボ)頼れる貴方が大好きだからこれからもず〜っと一緒にいて下さい。結婚36年目の夫へ  妻より

飯沼 笑美子 (いいぬま えみこ) 様 [静岡県 52歳]

    これからも、よろしくね。

 私、十八才高校三年生。和之さん二十五才専門学生。
夏休みのバイト先で知り合い、あなたの、だれにでも同じように接し、同じように声をかけている姿に、気になる人となりました。
 二十才。告白!あなたは大人として、正直な気持ちを返事に書いてくれた事、嬉しかったです。
みごとに、ふられてしまったけれどね。泣きましたよ。
 互いに社会人となり、仕事・遊び・恋もしました。でも、何故か私は、結婚したい人は、和之さんだけと決めていたので、あなたが一人でいる間は、私を忘れないで、の意味を込めて、暑中お見舞と年賀状を出していたんですよ。
 片思い十二年。私から赤い糸を紡ぎ、手繰りよせ、今は亡き義母の協力もあり、結婚の話が出た時は、天にも昇る思いでした。
 マイペースだった息子も、成人し、社会人となって頑張っている姿は、頼もしくやさしく育ってくれ、一安心かな!?
 今は、日々穏やかに過ごせる事に感謝しています。和之さんは常々「人生一度しかないんだよ!今できる事は今、しよう。今を大切に、楽しく過ごさないと、後悔しても遅いよ!」と有言・実行・継続のあなたは、私の尊敬する人。後ろをついて行くのが、やっとの私ですが、時々、振り返って、私を見てね。小走りで横に並べるように、頑張るから。
 今年、還暦を迎える和之さん
健康で、これからも好きな様に、自分らしく生活して下さい。私は、そんなあなたの姿が、自慢でもあるのですから。
 妻にしてくれて、ありがとう。
 母にしてくれて、ありがとう。
       あなたは私の道しるべです。

笑美子

田中 美枝子 (たなか みえこ) 様 [京都府 65歳]

「な〜んや、それ俺のとちがうんかいな」
孫のために編んでいたマフラーは、その瞬間にあなたのものになりました。
年末の大雪、一人暮しのお年寄りが、さぞ困るだろうと元旦そうそう、スコップを手に外へ飛び出したあなた。
雪を頭にのせて、帰ってくる、あなたのために、作るのは、何年ぶりでしょう。
久しぶりにワクワクしてきました。
あなた、気づいてくれますか。
一筋入れたピンクは、私の気持です。

よし田 登 (よしだ のぼる) 様 [大阪府 82歳]

 浹子、僕達結婚して五十五年になるね。
 月並みな言葉だが、長い様で短かくも思える年月だ。この間(カン)、お互いの誕生日、お見合いの日、勿論結婚記念日等二人の出会いに関係ある日には外食をしたり小旅行をしたりして、二人が結ばれた事を感謝して来たね。
 家事に育児に、そして私の為に本当に真心こめて頑張ってくれたこの年月、ありがとう。
 二人のお見合いのきっかけを作って下さったのが、近くの市場の果物屋のご夫婦。お見合いの当日気さくな雰囲気を作って下さっているのに君は可成り固くなっていた。それに対して僕は場慣れした様子が自分でも分かった。何回も経験があったからでも自分に自信があったからでもない。お見合いで返事を決めるのではなく、「あなたと結婚します」と宣言する為のお見合いだったことを今告白というより白状します。失礼な事だったが一生つれ添う大事な方なので、父を口説いて抜け駆けをしました。
 それはお見合いの日迄に、あなたの勤務先は大阪駅近くの日立電機製品の特約店だったから会社を訪ね、直接上司の販売課長に会い、来店の目的を正直に話してお願いすると、「明るく気さくないい娘(コ)ですよ」と前置きし「私には毎日来客が多い。さり気なく呼びます。」と言って、社内電話で「野澤君。お客さんや。お茶二つたのむわ」と一階へ連絡。
 私達の席からはお茶をもって階段を上ってくる君がよく見えた。僕達の顔は見ず課長に「どうぞ」と言ってゆっくり下って行ったね。
 その時僕は君の事務服の肘に継(ツギ)の当っているのを見た。終戦から十分立ち直れていない折で、見慣れた光景ではあったが、うら若い娘さんである。「偉いな。節約家だろうな。一生を共にする人としてきっとすばらしい人に違いない。」と思った。父もよく観察して同じ意見だった。今の時代と同じエコ精神に惚れたのです。お見合いの日の返事はこのようにして決定しました。服の継に惚れた男です。反則ですが、結果オーライでお許し下さい。

打浪 重美 (うちなみ しげみ) 様 [兵庫県 60歳]

ダンナ様へ

 結婚前は貴方のためなら死ねると思ってた。子供ができてからは、アンタのためには死ねません。長い年月の間には女心もコロコロ変わろうというもの。
 私の事は変わらず大切にしてくれるのに、子に対してはなぜか冷めている。訳を問うと接し方が分からないと言い、仕事にばかり奔走した。子らの将来を慮り何度別れを決意したか。けれど私も古風でけなげな女、耐えて忍んで参りました。
 で、当然というか二男がぐれてしまいました。私は毎夜貴方に訴えましたが馬耳東風、糠に釘。
 高校を中退したときも「勉強する気がないんやったらしゃーないやん」、次々仕事を変えたときも「遊んどるよりましや」、暴走族で警察の厄介になったときも「臭い飯を食ってみるのも経験や」、挙げ句の果ては「悪さをするのも根性がある証拠や」。
 忘れもしない大事件が起こったのは間もなくのこと。
 深夜にも拘わらず暴走族がけたたましくわが家を包囲。何でも昼間のお礼参りだとか。二男は当然雲隠れ。おたおたする私を尻目に、貴方は荒れ狂う狼どもの中へ。事あらば加勢をと馳せ参じたところ、何とまぁ、皆で車座になり談笑しているではありませんか。やがて彼らは静かに退場となったのですが、あの時は狐に包まれたような、夢を見ているような気分でした。
 「ちゃんと話せば皆良い奴ばかりやんか」そう言って貴方は再び仕事場へと車で去って行きました。
 暫くして二男は更正の道を辿り、自分で宣言した通り立派に貴方の仕事を継いでいます。
 多くは語らずとも家族のことをしっかり掌握しているのだと、改めて貴方の器の大きさに感服いたしました。それに引替え、目先の事象にのみとらわれ別れろ、切れろと感情で物を言う私は、貴方の大きな掌の中で転がされているだけの小さな人間であったと恥ずかしく思えました。
 今は加齢と共に心安らかな日々です。が、まだまだアンタのためには死ねまへん。子もいるし、孫もいることやから。

高橋 弘子 (たかはし ひろこ) 様 [山口県 77歳]

あなた、覚えてますか?おとといのことです。もうすぐ「米寿」の祝いがきますね、といったら、馬鹿を言うな、数えの80じゃから傘寿じゃ、傘の字が八十を表すんじゃ。米寿は米の字を八十八と読み解くんじゃからまだまだ先、おまえはこねぇな簡単な漢字の意味もわかっとらん、とむきになって怒り出しましたよね。こっちは素直にあらそうですかと言っているのに、まだ傘寿傘寿と耳元でしつこく繰り返すもんだから私だって嫌になってきて、つい、フイッと庭に出ちゃったんです。ゴム手袋はめて「あのひとときたらほんと年々くどくなってきたわ」と愚痴をこぼしながらピラカンサスの枝をバシバシ切っていたら、頭の上にぬっと大きな傘。途中でパラパラ雨が降り出していたんですね。夢中だったから、気づきもしませんでした。驚いて傘を見上げた私に「馬鹿は風邪をひかんというが、わしらの歳になったら、それもわかったもんじゃない。一応中に入れ」とあなた。さっきのこと、少しは言い過ぎたと反省なさったんですかね?「まだ私は傘には入りませんよ」と憎まれ口を叩いた私に大真面目な顔で「あと2年したら必ずおまえも傘の中に入ってこいよ。いいか、必ずだぞ」って。嬉しかったです。傘寿ってことば、もう忘れない。今年は、我が家のピラカンサスの実たちも、いつもよりポッと赤く、熟れるかもしれませんね。

「家族へのラブレター」部門

星川 千里 (ほしかわ ちさと) 様 [千葉県 62歳]

「こんどいつきますか。おばあちゃんはまっています。おばあちゃんより」 たった2行。すべて平仮名のたどたどしい文字。覚えていますか。おじいちゃんに教わりながら、おばあちゃんが鉛筆を握りしめて書いた手紙です。花柳界で苦労したおばあちゃんは幸せとは言えなかった。未婚で出産したわが子は里子に出され、一回り上のおじいちゃんの後妻となった。なさぬ仲の子供たち4人が次々に結核で死ぬのは、丙午のおばあちゃんのせいと陰口をたたかれたそうですね。唯一残った私のお母さんが婿養子をとり、子供が生まれると、今までの寂しさを取り戻すかのように孫の私を片時も離さなくなった。私が小学校に上がる春、お父さんの転勤で愛知から上京。おばあちゃんが泣いてばかりいると聞き、学校が休みになると私だけ愛知に帰りました。春、夏、冬の休みはいつも愛知の田舎で過ごしていました。それが厭では決してなかったけれど、大学生になると初めて「忙しいから帰れない」と電話しました。当時の私はアルバイトやサークル活動の毎日で、おばあちゃんを思いやるゆとりがなかったのです。そんな時届いたのが、最初で最後のおばあちゃんからの手紙。離れていく私を引き戻そうと必死だったのですね。一生懸命さの伝わる文字にあわてて、おばあちゃんの顔を見に帰ることにしました。40年経って便箋は薄茶色に変色したけれど、私の大切な宝物です。神経質で気難しい私だったのに、心から愛してくれていた証ですから。そして、これほどの思いのこもったラブレターは、私には一生かかっても書けないと思いますから。

須藤 環 (すどう たまき) 様 [東京都 60歳]

    「大切な人」
 あなたが初めて彼女を紹介してくれた時、なんて綺麗な人なんだろうと私もお父さんも何だかソワソワしてしまいました。「素敵な人ね」ってそっとあなたに言ったら「そう?」ってはにかんだ笑顔が忘れられません。あなたに肺がんが見つかり余命半年と宣告されながら、それでも前向きに治療し、がんに関する本を読みセミナーに参加し気功にも通ったりしました。そこで知り合った彼女はあなたが完治する事を信じて励まし続け入院した時も毎日お見舞に来てくれましたね。どんなに心強かったでしょうね。余命半年が2年もの間病気にみえない位元気でいられたのも、あなたの精神力と彼女のやさしさがあったからこそかもしれません。あなたが亡くなってから一年が過ぎてしまいました。今も月命日には仕事を終え一時間もかけて彼女は来てくれます。私達夫婦と3人で食事をしたり、買物に行ったり、花火をみたり、クリスマスを過ごしたり慰め合い励まし合い、3人で思い出をたどりながら時に笑いそして涙しながら過ごしてきました。私達夫婦にとって、どんなにか癒された事でしょう。ここにあなたが居てくれたらと思うと残念でなりません。
 あなたが苦しみの中で打ったであろう彼女宛の「早く忘れていい人をみつけて幸せになってね」の未送信のメールを彼女は何度も読み返していました。あれから一年が過ぎた今、その言葉を今度は私達から彼女に言わせてもらっていいですか?とても寂しくなるけれど、あなたの大切な彼女の幸せを願って「もういいのよ、後ろを振り返らないで早く忘れて幸せになってね」…と 辛いけれど私達も前向きに頑張っていきます。あなたと、そして彼女の思い出とあなたが私達に残してくれた「ありがとう」のメールを抱きしめて…

宇津野 恵子 (うつの けいこ) 様 [愛知県 59歳]

由里さんへ
 由里さんいつもありがとうね。
今日は、由里さんへラブレターを書きます。
 私は昔からいつも不器用な生き方しか出来なくて、その為に随分とまわりの人達に迷惑もかけて来ました。そのひとつに離婚があります。その時泰之(ヒロユキ)は反抗期の真っ只中の中学2年生。当時、私は子供達を食べさせるのに必死で、何でこんなに頑張っているのに泰之は分ってくれないのだろうと出口のない親子関係は長く暗いトンネルの中でした。もちろん会話はありません。言葉をかわすのは、ケンカの時だけでした。情けなくて、仕事の疲れと泰之との関係の疲れで私は、ほとほと自分に自信をなくしていました。
 そんな長く辛い時間が流れて泰之は縁あって由里さんと結婚し、大阪に住む事になりました。
 お嫁さんである由里さんは、泰之にはもったいなく、美人でやさしくて、私はいっぺんで気に入りました。初めて我家へ泊まりに来てくれた時、狭くて、きたない市営住宅の部屋いっぱいに布団をひいた時、「ワァー 修学旅行みたい」と言ってくれて、私は救われました。
 私は自分が姑とうまくいってなかったので由里さんが遊びに来て下さいと言ってくれたのも社交辞令と思っていたら、何で来てくれないのと言われた時、姑の私が気楽に遊びに行っていいんだと嬉しくてたまりませんでした。
 そして何より泰之と昔の様に、普通の親子になり、普通に話が出来る様になりました。
 それがどんなに私が望んでいた事か、どんなに幸せな事か。
 最近では、時々、泰之が孫の凛の声を聞かせる為に電話をくれます。由里さんのさりげない差しがねと分っていても泰之がこんなに自然にやさしい言葉をかけてくれるなんて、本当に心から由里さんに感謝しています。ありがとうね。

恵子より

奥山 真理 (おくやま まり) 様 [京都府 51歳]

「とりあえず帰って来い。おずさん、おがね(お金)やっから」 あの電話、今でも覚えています。親を早くなくした私には、伯父さんは親以上の存在でした。でも自分だって余裕ある身ではないはずです。なのに潜在性脊椎破裂症による腰痛で、予備校講師の職を失った私を、何とか救おうと・・・。駅に着くと、作業着のままの伯父さんが、煤で汚れた封筒を握りしめ、柱の陰に立っていました。「ほれ、持ってけ。えっから、もう泣ぐな」と。情けなくてまともに顔を見られませんでした。京都へ戻った翌日、何と予備校の教え子が、私を探して来てくれました。伯父さんのお金で問題集を揃え、その子と炬燵を囲んだのが、今の塾の始まりです。その塾が創立15周年を迎えた時、伯父さんを呼んで食事会を開こうと思い電話しました。が、人前は恥ずかしいから参加しない、って…。「さすん(写真)、送ってくれたらいいべ」。以前私が送った塾の写真のことを、「今も毎日見てるっさ、宝物だ」と、遠慮がちにつけ加えて。その伯父さんが二週間後に脳出血で急死してしまいました。今までのお礼も、恩返しも、八つ当たりした謝罪も、未来永劫叶わないのです。…こたえました。葬儀から帰京した翌朝、宅配便が届きました。送り主には伯父さんの名が、発送日には亡くなる前日が、かなの多い字で書いてあります。震える手で紐を解きました。写真を入れて送り返すための額、そして金銀糸と箔とで扇面が織りなされた丸帯・・・・。それらが丸めた新聞紙の中から静かに現れました。人目を構わない伯父さんのこと。あの寒空の下、いつもの作業着で街に出かけ、店の人の視線も気にせずに、懸命に選んでくれたことでしょう。その帯に、顔を埋めてただただ泣きました。伯父さんは今あの額の中で、着物姿の私と並び、直立不動で立ってます。親子以上に親子だったね。ありがとう、伯父さん。大好きだよ。

櫻井 俊甫 (さくらい しゅんすけ) 様 [大阪府 75歳]

《祖父から孫娘へ》

 孫娘よ、お前は幼稚園児の時、突然急性白血病で入院してしまい、お婆ちゃんとともに心配で、夜も眠れない日が続いたよ。
 薬のせいで、大人でも苦しくてがまんできないような入院生活の中、髪が薄くなってしまった頭を、鏡に映し手でなでながら
「毛が取れちゃったよ」
 と、自分が今どれほど重い病気かも知らずに、不思議そうにはにかむその姿は、可哀想でしかたがなかったよ。
 それでもお前は、小さな体と心ひとつでよく頑張り通して退院でき、その後の大事な五年(生存率)を無事乗り越え、さくら咲くこの四月には中学生だね。
 お婆ちゃんは涙を流して喜んでいるよ。
 孫娘よこれから先、忘れてはいけないことがあるよ。
 それは、多くの心優しい人たちからの、真っ赤な愛の輸血を頂いて、元気になれたことへの感謝の気持だよ。
 そして、同じ病気で悲しみながら、遠い所へ逝ってしまった子たちの分まで、一生懸命に生きてやるんだよ。
 お前の成人式の晴れ姿を、お婆ちゃんと二人で楽しみにしているよ。

谷間 さち子 (たにま さちこ) 様 [兵庫県 59歳]

   詩音(しおん)の旗印
しおん、君が産まれた時、ばあちゃんは一番にかけつけたよ。ママの胸の上で 片方の目だけで、おっぱいを探す君、まるで怪獣みたいだった。それから直後いろんな事情があってパパとママが離婚して、ばあちゃん(ママの実家)とこへ帰ってきたね。ひいじい、ひいばあ、じいちゃんに囲まれてスクスク育ったね。でも四月になると、ばあちゃんはつらかった。ここらあたりのしきたりで男の子が産まれたら、鯉のぼりを揚げるのに、他の家では揚げてるのに、しおんに揚げてやりたいってね。離婚して帰ってるの誰も知らないのにね。でも今、認知症になってるひいじいが「鯉のぼり買ってこい。しおんが産まれたって旗印するんよ。何の恥じる事は無い。お天と様に しおん、ここに居るってとこ見せたれ。」大きな竹を用意して、鯉のぼり買ってきて、少し小さかったけど、空いっぱいに泳ぐ鯉のぼりを見て、ばあちゃん涙が出てきた。とってもうれしかった。ひいじいは今何も覚えてないけどね。たぶんパパのいない君を、不びんに思ってたんだと思う。今、五才になった君は、背も高く、かっこよくなったね。あれから毎年、鯉のぼりを揚げてるけど、ばあちゃんこの季節がくると、この出来事思い出すんだ。みんなの愛情がいっぱい詰まった旗印覚えていてね。そして君がこの鯉のぼりのように、大空にはばたいて活躍してね。ただ一つ人に迷惑だけはかけないでね。ばあちゃんと約束だよ。   ばあちゃんより。

原 八千子 (はら やちこ) 様 [兵庫県 74歳]

 はるちゃん。東京暮らしにも慣れて大学生活を楽しんでいることと思います。
 アルバムを見ながら、去年の今頃のことを思い出しています。あれは、大学入試を一週間後にひかえた日でしたね。
 新聞で『踏切り内の高齢者救出』という大きな見出しで報道された貴女の記事を読んだ時の気持ちは今も忘れられません。
 新聞記事には、踏切りでおばあさんを自転車で追い越したその直後、驚報が鳴った。
『もしかして』と振り返ると、おばあさんは閉じ込められていた。自転車は道路わきに置いて踏切りへ走っていた。一緒に出ようとしたが、足の悪いおばあさんはすこしずつしか進めない。そこへ電車がものすごいスピードで近づいた。『間に合わない』と思い、おばあさんを抱えて出た。非常ブレーキをかけた電車は踏切りを百八十メートル通過して停車した。関係者は、「二つの命が失われた可能性もあった。その場に居合わせて同じ行動ができたか私たちでもわからない」との記事の後に『私しかいないと思い無意識に駆け寄っていた』という貴女の言葉が添えられていた。
 おじいさんとおばあさんは、その記事を読んで、しばらく涙が止まりませんでした。
 それどころか、「もしあの時貴女が…」という気持ちばかりで、「偉かったね。いい事をしたね」という賞賛の言葉などかける気になりませんでした。ほんとうにごめんね。
 無事、貴女が目指す大学に合格して東京へ行った後、新聞記事を切り抜いて、『我が家のアルバム』の一ページに入れました。
 いろいろ迷ったのですが、タイトルを『十八歳、遥の勇気!』としました。
 テレビで東京スカイツリーのニュースを見る度に、おじいさんは「来年は東京へ行って遥と一緒に見物したいな」と言っています。
 病気の後遺症で足は弱っていますが、目標ができたので、リハビリに励んでいます。
 会える日を楽しみにしています。元気でね。

岸野 洋介 (きしの ひろよし) 様 [岡山県 78歳]

 由佳よ、今朝は本当にびっくりしたぞ。八時過ぎに勝手口を開けたら、紙袋が目に飛び込んだ。開けて見て二度びっくり。何の連絡もなしに、まだ温みの残る美味しそうな赤飯弁当と、私の好物の灘の生一本が入っているではないか。思いもかけなかったお前からの誕生日祝いについほろり。
 走り書きで「父さん七十八歳の誕生日おめでとう。母さんが亡くなって初めての誕生日。母さんに代わって、私が父さんに赤飯を炊きました。私は勤め先が遠いので、正道さんに出勤途中に届けてもらいます。ではまたね」
 義理の親父のために、娘婿の正道が通勤途上でわざわざ誕生日の弁当を届けてくれたと知り、また目頭を熱くした。お前は母さんが亡くなってからは、休みの日には忙しい時間を割いて度々家に来て、家事をしてくれるので大助かりだ。二人の孫にも時おり私を見舞うようにと言ってくれているのも嬉しいよ。
 父さんと同じように連れ添いを亡くした友だちの中には、子どもが遠方にいて、ずいぶん寂しい思いをしていることをよく耳にする。それに比べ父さんはなんと恵まれているかと思うと、寂しさも薄れるよ。本当に今日はありがとう。独りではないことを実感した。二人の孫に高校と大学の入試をしっかり頑張るように言ってくれ。正道さんに、父さんが大変喜んでいたと伝えてくれ。

清田 進 (きよた すすむ) 様 [福岡県 50歳]

 佐知子さんがわが家にやってきてくれたのは、僕が小学校3年生、弟の勝が1年生の春でしたね。26歳の美しい、僕らの新しい母さん。父さんと三人、男だけの僕らの暮らしは、その日から革命的に変わりました。パンやコーンフレークの朝食は、みそ汁とご飯に変わり、休む前には明日着る服を枕元にたたんで置いておくことなどなど。友達が遊びに来た日のおやつに、コンデンスミルクの海に浮かぶイチゴミルクが出て来た時は得意でした。何よりも大きかったといえる革命は、月に一度の本の買い物と、パーラーによることでした。恐竜図鑑や、ドリトル先生航海記。お気に入りの本を買って、はじめてページを開くのは、毎月必ずパフェを食べながらでしたよね。僕にとっての佐知子さんは、佐知子さんが29歳のときで時間が止まっていて、おばあさんというにはイメージがわきませんが、この幸せな習慣は、今、佐知子さんの孫、僕の長男、春には小学校2年生になる太郎が独占しています。佐知子さんのことを「本当の母さんではないんだろう」と言った健ちゃんに僕が腹を立てて突進。教室の机の角に頭を打ち付けてケガをさせた日の夜のことは忘れません。たまたま風邪で休んでいた佐知子さんはベッドの横に僕を呼び、「明日、一緒に健ちゃんに謝りに行こうね」と言ってくれましたよね。その頬には涙がひと雫光っていた。僕と弟と、佐知子さんと三人。ベッドの上にパジャマ姿のヒザを並べて、本を読んだひと時も、佐知子さんがわが家にやってくるまでは知らなかった温もりの時間でした。父さんもそんな僕らの様子が嬉しそうだった。でも、そんな幸せも3年でおしまい。佐知子さんが不治の病に取り憑かれるなど、考えもしないことでした。佐知子さん。あなたとの思い出にひたる時、僕は心から癒されます。感謝を込めて、今、手紙を綴りました。でも「母さん」、悲しいことに、その宛先が僕にはわかりません。